個人的歴史観

提供: マジシャナルズ wiki
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No.58

 タイトル通りの内容である。二通りのアプローチがあるのでどちらかでも興味を持って下されば幸いである。


1.真面目な中身

  人類の歴史、それは即ち本能の発露・充足とその制御の繰り返しである。欲望と表現しても良いが、本能の方がより広汎かつ根源に迫っているものと判断した。なぜなら、欲望という言葉とその概念は、人類が一定の文化・文明を得てから意識され始め、作り上げられたものだからであり、本能とは生物としてのヒトが猿から進化する以前に遡ってもなお確認できるからである。

 人類の生物としての能力は、実はとりたててずばぬけたものはない。自己体重あたりの筋力で言えばアリの方がはるかに優れているし、むろん空は飛べないし、プラナリアのように切っても再生できるわけでもない。

 知性や精神力ではどうか。なるほど人類は物を書いたりTRPGなどというやくざな趣味にいそしんだり、宝くじを買ったりする。だが核爆弾を作って互いに脅し合うような愚かしくも幼稚な手段は他の生き物なら決してしない。

 ……にもかかわらず、人類が発展し得たのはなぜか。それは、本能を維持しつつ本能から派生したものをも同時に把握し制御し得る、まことに欲張りな能力を持っているからに他ならない。単に本能しか持たない存在なら、そこらの動物とさほど変わりないし、本能から派生した各種の産物、例えば「恋愛」、「知識」、「空想」といった概念は、多くの場合実体を持たない。哺乳類は全般にその両方を持ってはいるが、ヒトのように制御することは苦手である。

 本能並びにその制御機能の集積体としての人類には、二種類の歩みが同時に記録されることになった。すなわち個人としてのそれと集団としてのそれである。前者は、基本的なパターンとしてはさほど変化がない。どの時代でも似たような事件なり出来事なりで心身に影響を受けている。だが後者は様々に変化している。民主主義、啓蒙思想、ルネッサンス、神学的世界観などといった代物が次々と現れては消え消えては現れている。

 つまるところ、自分と直接の相手とその他他者に対しての本能のあり方が、歴史をひも解くための一つの軸線になるのでは、と考えている。


イージーエイト


No.59

2.不真面目な中身


(略)

イージーエイト