論理的に言って云々…前件否定の誤謬の回避

よく巷間では、「論理的に言って……」とか「……というロジックで」というレトリックが蔓延しています。 僕が目にするものでは、誤謬のいわゆる代表性ヒューリスティックの錯誤をして、正しいことは正しいという主張の強弁によく見受けられます。 蛇足ですが、心理学や精神医学も政治的主張の根拠に用いる方がいます。これも単に主張の強弁でしょう。 それだけ理解されないまま、レトリックとして陳腐化してきたのでしょう。 命題「AならばB」の真偽はAの真偽に関係なく、Bの真偽が反論になるという主張を目にしたことがあります。正確には反駁です。 つまり、真理値表で言うと、

A B AならばB

Aに対して反論することはナンセンスだというわけです。「雪が降る ならば バスは遅れる」であれば、「雪が降っていない ならば バスは遅れる」とか「雪が降っていない ならば バスは遅れない」は無意味で反論になっていない。モーダストレンス(後件否定)しか認めないという論法です。 つまり前件否定の誤謬だというわけです。もしそうであるとしても、妥当なのか、健全なのかの論証には議論対象になります。もし、前件否定の誤謬であるとしても、それを主張する側が単なる代表性ヒューリスティックの錯誤をしているだけなのかどうか自己検証が必要でしょう。

一・八反駁 (中略) 論証を反駁するとは、その誤りを示すことに他なりません。(中略) 反駁のツール その方法は基本的には二つありますが、どちらも本書の別の項目で詳しく論じておきました。論証が非妥当であることを示すのが一つ。結論が、言われているようには前提から帰結しないことを示すわけです(一・五を参照のこと)。さらに、少なくとも一つの前提が偽であることを示すのがもう一つの方法です。 第三の方法として、結論が偽に違いないことを示す道があります。これは、論証のどこが間違っているかを特定できなくても、どこかおかしな点があるに違いないことを示すというものです(三・二三を参照のこと)。しかし、このやり方は厳密には反駁と言えません。論証のどこが間違っているかを指摘したわけではなく、単に間違っているはずだと言っているだけなのですから。 不十分な正当化 たしかに反駁は強力なツールですが、論証を退けるのに反駁だけが有効だと結論するのは早計です。(中略) ツールを使う 反駁ではなくても、論証に対して正当な異議を唱える方法は他にもたくさんあります。大切なのは、反駁とその他の形の異論とには明確な区別があることを弁え、その異論がどのような形式のものなのかをはっきりさせておくことです。

「哲学の道具箱」

ジュリアン・バッジーニ、ピーター・フォスル(共立出版) より

「AならばB」は図で示すと、以下のヴェン図になります。非A(Aではない)、とBである、の少なくとも一方が正しいと、言い換えただけ(¬A∨B)です。 べんず(字あり) 図で分かるように、前件に合意できるなら、Bとは違う、「AならばC」を立てることは反論になります。正確には異論になりますが、わざわざBを否定しないと反論にならないというのは全くの誤りです。 ある話が議論の途中から出てきたことが厄介でした。 普通、議論で出てきた論理包含や条件文は何らかの脈絡で出さなければならず、Aであることは、連言であれ、選言であれ、根拠(理由)が必要でしょう。

Ⅳ充足理由の原理 ライプニッツによれば、「われわれの思考は二大原理に基づいている。1つには矛盾の原理で、それによってわれわれは矛盾をふくむものを偽と判断し、偽に反対な、もしくは偽に矛盾するものを真と判断する。もう1つは充分な理由の原理で、それによってわれわれは“なぜこうなってああはならないかというじゅうぶんな理由がなければ、どんな命題も真実であることができない”と考える。もっともそういう理由はわれわれに知られない場合が極めて多い」のである。さらにかれは前者の真理を「推理の真理」、後者の真理を「事実の真理」とよんで、両者を対応させた。 「充足理由の原理」(充足理由律、理由律)は、以上のような存在論的な意味を根底に持つために、理由と考えられるものを事実の実在根拠(原因)とみなす場合もあるが、ふつうには「すべての思考にはつねにかならずじゅうぶんな理由がなければならない」と表現される。すなわちわれわれがなにかを思考しその意味をきめるには、それなりのじゅうぶんな理由がなければならないとするもので、そのじゅうぶんな理由がなんであるのかを決定するのは、論理学の課題ではないにしても、しかしともかくそういうじゅうぶんな理由なしにはどのような思考もなりたたないということはあきらかであろう。これが充足理由の原理であって、理由として認められるものを「根拠」groundといい、その根拠にもとづいて主張されるものを「帰結」consequenceという。この原理はすべての仮言判断の基礎をなすと同時に、われわれの思考はこの原理によって根拠と帰結との関係として相互に依属させられ、いっさいの思考の必然性がみちびきだされるのである。 「論理学入門」若山玄芳、東千尋、千葉茂美(学陽書房)より

 

充足理由律は棄却できるか このように、充足理由律の受け入れには多くの問題がともなう。それならそうした問題の多い原理なんて、捨て去ってしまえば良いではないか、という考えもありえる。しかし充足理由律を単純に拒否することには、さらに大きい困難をともなう。日常的な文脈で言うならば充足理由律をまったく認めないことは、ほとんど狂気に近いものとなる。「物は突然ただ無くなるということもありうるのではないか」と言われて、「私もそう思う」と答えるようなことだからである。さらに哲学的な文脈では、充足理由律の棄却は、時に、学問の放棄、知の敗北、といった大きい意味をもって捉えられることもある。これは理由律が学問における重要な要素のひとつを構成していることからの反応である。 充足理由律(Wikipedia)より

このように、前件否定の誤謬以前に、なんの理由があって前件が提示されているのかを説明する必要があります。 もう一つ、対偶があります。 命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」でしょう。 論理記号では、「A ならば B」の対偶は「¬Bならば ¬A(非Bならば非A)」です。同じ真理値をとらなくてはならないので、真理値表は全く同じ以下になります。
つまり、モーダストレンスはモーダスポネンスに変換できるのです。

A B ¬B ¬A ¬Bならば¬A

AならばBは、非A(Aではない)、とBである、の少なくとも一方が正しい(¬A∨B)と、言い換えただけで、対偶は非Bではない(Bである)、と非A(Aではない)、の少なくとも一方が正しいです。

¬B→¬A =(A→Bが¬A∨Bとなるので) =(¬(¬B))∨¬A(下図)

=B∨¬A =¬A∨Bです。

ヴェン図では全く同じことの範囲を表します。 べんず(字あり)02
「AならばB」は単純に言い換えると、「非A∨B(Aではない、または、Bである)」となります。記号「∨」は「選言、または、論理和、OR」と言います。

Bであるかないかに関わらず、(前件)非Bであって、(後件)非Aでないとき、対偶は偽になります。対偶が偽であればもとの命題も偽であることが証明できます。 Bではないのに、Aであること(非Aではない)を証明できれば、対偶文からの反論です。 前件否定の誤謬を回避する常套手段です。こういう、モーダスポネンスにして反論が有効になります。つまり、「雪が降っている ならば バスは遅れる」であれば、対偶は前後を入れ替えて、「バスは遅れていない ならば 雪は降っていない」と同じです。この対偶への反論は、「バスは遅れていない ならば 雪が降っている」です。 対偶で意味が通らなければ、その「ならば」の用法は論理学とは別の用法を用いている場合だと判別できます。こうした問題の理解には、「ならば」という日本語に原因があるそうです。 論理学における「ならば」と日常会話における「ならば」は同一ではないのです。 論理学では、「AならばB」は包摂関係で、Bのほうが大きい。

日本語の日常用法には、Aが原因でBが結果という意味もあるため、逆にAから見てBが小さい気がしてしまうらしいのです。

また、日常用法での前件は、まだ真偽が未確定の事柄か、真偽が何かの変数に依存したりします。

さらに日常用法ではわざわざ偽の事柄を命題の前件に据えることは、まずありません。

言っていることは“「AであるのにBではない」を否定する”だけです。

例えば、日本語で主張していてあらかじめ命題論理であるとして前置きしていなければ日常用法から突如離れた主張になります。主張の後に命題論理であると主張しても全くナンセンスでしょう。

じつは反論のパターンはそんなに多くない。代表的な5つのパターンに当てはまらない反論は、十中八九ただの罵詈雑言。相手にする必要はないし、口にすべきでもない。そして何より、意見を述べる前に「自己反論」してみることが大切だ。たとえ意見が一致しないとしても、最低限「くるであろう反論」は予測すべきだし、適確な反論ならば真摯に受け止めるべきだ。 反論のパターンは以下の5つ。

1.No reasoning (論拠がない)

2.Not true (うそだ)

3.Irrelevant (無関係だ)

4.Not important (重要ではない)

5.Depend on *** (○○による)

競技ディベートで遊んだことのある人なら、目にしたことがあるはずだ。

論理的思考を鍛える5つの反論のパターン/「きのこVSたけのこ」論争に終止符を! より

大手のX新聞社が誤報だと謝罪訂正する前の問題を取り上げたとします。

「X新聞社の伝える報道、問題Aが正しいとするならば(暗黙の前提)」 問題Aを~するなら、手段Bをとるべきである。 命題「AならばB」の真偽はAの真偽に関係なく、Bの真偽が反論になる。

この文章は命題論理では解決できない問題をはらんでいます。

(引用開始)

1.1.2 易しい論理学用語を知っておこう

(略)「命題」は平叙文(記述文)の形で記述されていて,「真」,「偽」を問題にすることが可能でなければならない.だから,疑問文,感嘆文,命令文や願望・意志などを記述する文であってはならない.個人など発話者の主観や思い,あるいはそれらに基づく文は一義的に「真」,「偽」を決定することができないので,命題にはなり得ないのだ.
(略)

http://www.ltkensyu.com/logicalthinking1.html

(引用終了)

  • 伝聞の事実によって、意味が変わってしまう命題は、明らかに事実よって成り立つ命題であることであって、論理的に成り立つ命題ではない。
  • 単に怪しい伝聞の報道を取り上げて発生論的誤謬を犯しています。
  • 手段Bをとるべきというのは「~手段Bが好ましい」という以上の意味はないので、これでは真理値は与えられない。
  • 「である」と「であるべし」のギャップがあります。「問題Aを~するべしなら、手段Bをとるべし」と自然主義哲学として考えるならば、「問題Aを~するべしなら」という前件には、命題論理学上の反駁が不能という論証とはなりません。ヒュームのギロチンにかかってしまいます。
  • もし命題であるとして、問題Aについての議論で、X新聞社の報道、問題Aが正しいとするならばという暗黙の前提を受け容れなければならないので、その論点先取を隠している。
  • 普通、こうした命令文には真理値は与えない。
  • 反論は反駁かそうでないものの二つしかないとする誤った二分法を用いている。
  • 仮定が反事実的条件法であることを無視するのはおかしい。当初から報道には疑いが向けられていた。
  • そもそも演繹演算しかできない論理に前提から導けない結論はおかしい。
  • 日常言語の日本語の用法の「ならば」を用いているはずなのに、真理値表を持ち出すのは論外です。
  • 「”問題Aを~するなら、手段Bをとるべきでない”を否定する。」と等価ですが、そんな事は言ってません。手段Bは、この文の主張であって違う手段B’やB”などと議論上で提案しているだけです。
  • そもそも問題Aが偽の場合を含めた主張ではないでしょう。

考えると色々なお約束を守っていないので、とても命題論理では太刀打ちできません。 反事実的条件法は、以下の本でどうぞ。専門知識が理解に必要ですが、眺めると、論理学の奥の深さを感じ取れます。

記号論理学を独習するならば、一般的に評判が高いのは「論理学をつくる」が良いそうです。

読み物として、論駁手法集としてオススメなのが、以下の本です。倫理学版もあります。

哲学の道具箱   第1章 論証の基本ツール 1.1 論証・前提・結論 1.2 演繹 1.3 帰納 1.4 妥当性と健全性 1.5 非妥当性 1.6 無矛盾性 1.7 錯誤 1.8 反駁 1.9 公理 1.1 0定義 1.11 確実性と蓋然性 1.12 トートロジー・自己矛盾・矛盾律   第2章 その他の論証ツール 2.1 アブダクション 2.2 仮説演繹法 2.3 弁証法 2.4 アナロジー 2.5 法則を裏づける変則事象と例外 2.6 直観ポンプ 2.7 論理的構成物 2.8 還元 2.9 思考実験 2.10 超越論的論証 2.11 ためになる虚構   第3章 論証評価のツール 3.1 別の説明 3.2 多義性 3.3 二値原理と排中律 3.4 カテゴリー錯誤 3.5 他の条件が同じならば 3.6 循環論法 3.7 筋の通らない概念 3.8 反例 3.9 規準 3.10 間違ったわけの説明 3.11 誤った二分法 3.12 発生論的誤謬 3.13 両刀論法と角 3.14 ヒュームのフォーク 3.15 「である」と「であるべし」のギャップ 3.16 ライプニッツの同一律 3.17 仮面の男の錯誤 3.18 オッカムの剃刀 3.19 パラドックス 3.20 共犯論法 3.21 善意解釈の原理 3.22 論点の先取り 3.23 背理法 3.24 冗長さ 3.25 背進 3.26 現象を救う 3.27 自己論駁的論証 3.28 充足理由 3.29 テスト可能性   第4章 概念的区別のツール 4.1 アプリオリとアポステリオリ 4.2 絶対的と相対的 4.3 分析的と総合的 4.4 定言的と様相的 4.5 条件文と双条件文 4.6 取り消し可能と取り消し不可能 4.7 伴立と含意 4.8 本質と偶有性 4.9 見知りによる知識と記述による知識 4.10 必然的と偶然的 4.11 必要と十分 4.12 客観的と主観的 4.13 実在論的と非実在論的 4.14 意義と指示対象 4.15 構文論と意味論 4.16 厚い概念と薄い概念 4.17 タイプとトークン   第5章 ラジカルな批判のためのツール 5.1 階級的視点からの批判 5.2 ディコンストラクションと現前批判 5.3 経験主義による形而上学批判 5.4 フェミニズムからの批判 5.5 フーコーの権力批判 5.6 ハイデガーの形而上学批判 5.7 ラカンの批判 5.8 ニーチェのキリスト教的・プラトン的文化批判 5.9 プラグマティズムの批判 5.10 サルトルの「自己欺瞞」批判   第6章 極限のツール 6.1 基礎的信念 6.2 ゲーデルと不完全性 6.3 神秘体験と啓示 6.4 可能性と不可能性 6.5 原始概念 6.6 自明の真理 6.7 懐疑論 6.8 決定不全性

「BOOKデータベース」より

倫理学の道具箱   第1章 倫理の根拠 1.1美学 1.2行為者性 1.3権威 1.4自立 1.5ケア 1.6性格 1.7良心 1.8進化 1.9有限性 1.10繁栄 1.11調和 1.12利害 1.13直観 1.14実力 1.15自然法 1.16ニーズ 1.17苦と快 1.18啓示 1.19権利 1.20共感 1.21伝統と歴史   第2章 倫理学の枠組み 2.1帰結主義 2.2契約主義 2.3文化批判 2.4義務論的倫理学 2.5討議倫理学 2.6神の命令 2.7利己主義 2.8快楽主義 2.9自然主義 2.10個別主義 2.11卓越主義 2.12プラグマティズム 2.13合理主義 2.14相対主義 2.15主観主義 2.16徳倫理学   第3章 倫理学の主要概念 3.1絶対的と相対的 3.2行為とルール 3.3悪と邪悪 3.4善行と無危害 3.5原因と理由 3.6認知説と非認知説 3.7作為と不作為 3.8同意 3.9事実と価値 3.10中庸 3.11名誉と恥 3.12個人と集団 3.13加害 3.14意図と結果 3.15内在主義と外在主義 3.16本来的価値と道具的価値 3.17法的と道徳的 3.18解放と抑圧 3.19手段と目的 3.20メタ倫理学と規範倫理学 3.21道徳的主体と道徳的行為者 3.22思慮 3.23公共的と私的 3.24ストア派のコスモポリタニズム   第4章 評価・判断・批判 4.1疎外 4.2ほんもの 4.3無矛盾性 4.4反例 4.5フェア 4.6誤謬 4.7公平性と客観性 4.8「である」と「であるべし」のギャップ 4.9正義と適法 4.10正戦論 4.11パターナリズム 4.12比例原則 4.13反照的均衡 4.14修復 4.15セックスとジェンダー 4.16種差別 4.17思考実験 4.18普遍化可能性   第5章 倫理学の限界 5.1アクラシア 5.2没道徳主義 5.3ふたつの自己欺瞞 5.4決疑論と合理化 5.5堕落 5.6虚偽意識 5.7自由意志と決定論 5.8道徳運 5.9ニヒリズム 5.10多元論 5.11権力 5.12根源的個体性 5.13人格の別個性 5.14懐疑論 5.15スタンドポイント 5.16義務以上の行為 5.17悲劇

「BOOKデータベース」より

参考リンク(すばらしい)

錯誤論:論理的 科学的に正しい推論 判断を妨げるもの (2013-08-12) PDF

詭弁や誤謬がいろいろあります。詭弁を学ぶことが実は論理を学ぶことになると感想を頂きました。

「思考のトラップ」の公正世界仮説

公正世界仮説――善人フェロモンか?

英語圏心理学分野で物議を醸している公正世界仮説。(公正世界誤謬、公正世界信念などとも)

(英語)https://en.wikipedia.org/wiki/Just-world_hypothesis

日本語では個人のwikiがありますが、後記にそのリンクを掲載します。

ある人が善(いいことをしている)であることは、善人(いいことをしている人)を呼び込むフェロモンだと思います。善人には善人が集うでしょう。善人が善人を呼び、善人とつがうことでしょう。良い目に遭う。これを僕は個人的に善人フェロモンと命名します。
公正世界仮説は社会的動物としての人間の本来の本能ではないかと僕は思います。

悪に手を染める人には善人はよりつかない。善人に悪人が寄り付いてきたら、他の善人が悪人を追い返す。悪人には悪人がよりつきます。そして悪い目に遭う。そう信じる。

宗教的なコミュニティーはそれを組織化しただけのものであって、その権力階層のトップレベルは除くと、一般信者レベルでは、この善人フェロモンの現世ご利益があるわけです。

善であること即ち幸福という倫理観もここから生じていて、我々は勧善懲悪のモノメニャックな趣味への陶酔を映画や文芸作品や漫画やゲームから確認しているのではないでしょうか。

一方で、悪とは何かという疑問も涌きます。

われわれは即断即決で、この公正世界仮説を基準として悪と断じる単純な倫理しか持ち合わせていないかのようです。

そうなると、善と断じることも同様ではないでしょうか。

いわばベイズ主義のように主観確率で結果から善悪の確率の濃淡を決めているかのような気がします。

所詮、こういうものは、衆人に訴える論証(羅:Argumentum ad populum)という詭弁ではないでしょうか。
しかし、世界規模で多様な文明・文化・風習・民俗が交差しようというグローバル化の現代にあっては、こういう詭弁による倫理原理が正解かもしれません。

健全な相対主義による倫理とは、このような単純な代物として、これからもっと発展する科学・技術に裁可を与える倫理工学?ともなるということになにか不安を感じませんか。

群集心理上の善悪判断はとても単純ではないでしょうか。

僕がこのような善人フェロモンという言葉を使ったのは、脳の器質障害という外傷を受けたある男の友人が、両親も亡くし、家は詐欺に遭って奪われました。公的扶助を受けても、飲む・うつ・買うということもせず、悪い友達を避けて、創作活動に打ち込みました。

そんな彼が、胃がんのため胃を切除し、抗がん剤治療を受けている最中、知り合った看護師の女性と仲良くなりました。

その女性は悪い結婚詐欺に遭っていて大変な思いをしているときでした。彼はその女性を支え、きちんとプロポーズして結婚しました。

彼も彼女も善人フェロモンを放っていたのではないでしょうか。

僕はそう信じました。

善いことをしていれば善い人に巡り会える。結ばれる。

というわけです。

公正世界仮説についてWikipediaの日本語ページがないので、この本から引用します。

#引用開始#

公正世界仮説

×
人生というゲームに負けるのは、負けて当然のことをしているからだ。


幸運に恵まれるのは、その人にその資格があるかどうかにはたいてい関係がない。
また、悪人が罰も受けずのうのうと生きている例も多い

ピンヒールにミニスカート、下着はなしという格好で女性がクラブに出かけ、ひどく酔っぱらったあげく、ふらふら家に帰ろうとして道をまちがい、治安の悪い地域に、迷いこんでレイプされた。

この女性には責められるべき点があるだろうか。自分が悪いのだろうか。自分のまいた種だろうか。

同様の状況について同様の質問をされると、たいていの人がこの三つの質問すべてにイエスと答える。そんな目にあいたくないと思う話を耳にすると、人は被害者を非難しがちだ。薄情だからではなく、自分はばかではないからそんな目にあったりしないと信じたいからである。被害者に責任が本来どれぐらいあるとしても、人はそれを実際よりずっと大きくふくらませる。自分のことならけっしてそうは思わないだろうというぐらいに。しかし現実には、被害者側の行動とレイプとのあいだに相関関係はほとんどない。一般にレイプは知り合いの犯行であり、被害者がなにを着て事前になにをしていたかは関係ないのだ。レイプ犯は絶対に責められるべきだが、たいていの啓発キャンペーンは男性でなく女性をターゲットにしている。そのメッセージは煎じ詰めれば、「レイプされるようなことをするな」である。

フィクションの世界では、悪人が負けて正義が勝つのがお約束だ。これが、世界はそうであってほしいと人の望む姿なのだ――公正で公平な世界。現実にも世界はそうなっていると信じる傾向のことを、心理学では公正世界仮説と呼ぶ。

具体的に言うと、ホームレスや薬物依存症のような恐ろしい不幸に接したとき、そんなことになるのは本人の自業自得だと思う傾向のことである。キーワードは「自業自得」だ。これは、悪い選択が悪い結果につながるという事実を言っているのではない。公正世界仮説は、自分は大丈夫という偽りの安心感を与える誤謬である。自分のカではどうすることもできないという無力感を避けるために、まちがったことをせずにいればひどい目にあうことはないと思い込むのだ。住む家をなくしたり、望まない妊娠をしたり、薬物依存症になったり、レイプされたりするのは、まちがったことをしたせいだ。そう信じれば安.心できる。

一九六六年、メルヴィン・ラーナーとキャロリン・シモンズは七十二人の女性を対象に実験をおこなった。ひとりの女性が問題に答えていき、まちがうと電気ショックで罰せられるさまを見せるのである。実には電気ショックを受けるふりをしているだけだが、見ている女性たちはそれを知らない。電気ショックを与えられた女性について感想を求められると、女性たちの多くが彼女を悪く言った。人柄や外見をけなし、口々に自業自得だと評したのである。

ラーナーはまた社会と医療に関する講義も教えており、そのクラスで気づいたのが、貧しい人はただの怠け者で、施しが欲しいだけだと思っている学生が多いことだった。そこで彼はまたべつの実験をおこなった。ふたりの男性がパズルを解いていき、最後にいっぽうが無作為に選ばれて多額の質金を受け取る。そしてそれを見る人たちには、受賞者は完全に無作為に選ばれると教えてある。にもかかわらず、あとでこのふたりの男性を評価してもらうと、賞金を受けとった方が頭がよくて、才能があって、パズルを解くのもうまく、仕事もできると人々は評価した。ラーナーの実験以降、何度も何度も同様の実験がくりかえされたが、ほとんどの心理学者が同じ結論に達している。世界はは公正な場所であってほしいと人は思い、だから公正な場所だというふりをするのだ。

公正世界仮説は、おそらく人の心にもともと組み込まれているのだろう。リベラルをだろうと保守派だろうと、他者の不幸を耳にしたときの感情的反応には、この考えかたがあるていど作用している。スウェーデンのリンショーピン大学のロバート・ソーンバーグとスヴェン・クヌートセンがニ〇一〇年に発表した研究によると、学校でのいじめの原因についてティーンエイジの生徒に尋ねたところ大半はいじめっ子がいばり屋で意地が悪いからと答えたが、四十二パーセントはいじめられっ子にも原因があると答えている。ふり返って考えてみると、学校でいじめを目撃したとき、なぜあの子はいじめに立ち向かって自分を守ろうとしないのかと思ったことはないだろうか。いじめられからかわれている子に対して、なぜもっと服装に気をつけたり、堂々とふるまったり、オタクっぽさを出さないようにしないのかと思ったりしなかっただろうか。いじめがテーマの映画では決まって、主人公のほうが立ちあがってやる返すすべを学ぶことになっている。いじめられっ子が自力で立ち向かって初めて、いじめっ子は報いを受けるのだ。この研究によると、いじめるほうが悪いのはわかっているが、それは変えようのない現実だと人は受け入れてしまう。この世は悪いやつだらけなのだ。しかし被害者も悪い。やればできるはずなのに自分の苦しみを終わらせようとしないのがいけない、と人は考えるのである。同じ研究では、傍観している自分も悪いと答えた生徒はニ十一パーセントであり、社会や人間の本性が原因と答えた生徒はさらに少なかった。ほとんどは、世界は公正公平な場所で、悪いことが起こるのはそこに暮らす人々――いじめっ子といじめられっ子――に責任があると考えているのだ。

因果応報という言葉を聞いたことがあるだろう。あるいは、人が当然の報いを受けるのを見て「カルマだ」と思ったことがあるかもしれない。こういうのも公正世界仮説の一種である。この世は不公平だと思うと気が滅入る。天秤のいっぽうに善行がもういっぽうに悪行が載っていて釣り合っている世界――そのほうが納得できる気がする。努力や苦労をいとわない人は報われ、楽をしたがる怠け者は罰を受けると信じたい。言うまでもないがこれはつねにそうとはかぎらない。成功はしばしば、生まれた時代、育った場所、両親の社会経済的地位、そして運不運に大きく左右されるものだ。どんなに努力しても、スタート地点の条件を変えることはできない。だからと言って、貧しい生まれの人は努力してもむだだということではない。なんと言っても、行動を起こさなければ成果が得られないことだけは確実なのだ。世界が公正な場所ならば、スタート時の条件にかかわらず、これだけが唯一の規則になっていただろう。しかし現実世界はもっと複雑怪奇だ。人は貧困を抜け出せるし、実際に抜け出す人もいる。しかしだからと言って、抜け出せずにいる人が、逆境から這い出そうと必死で努力していないとはかぎらない。恵まれない人を見て、なぜこの人たちは、貧困から抜け出して自分のようにいい職につこうとしないのかと首をひねるとしたら、それは公正世界仮説に惑わされている。努力する前から自分がどんなに恵まれていたかわかっていないのだ。

山師や詐欺師がうまく世の中を渡っているのに、消防士や警察官が長時間労働で薄給なのはまったく許しがたいことだ。正直な努力家は成功し、人を利用する悪人は破滅する――人はみな、心の奥ではそう信じたがっている。だから、その期待に沿うようにこの世界を書き換える。しかし現実には、悪は報いも受けずに栄えていることが多いものである。

心理学者ジョナサン・ヘイトによると、因果応報を頭では信じていなくても、心の奥では似たようなことを信じている人が多いという。ただ属する文化によって、それに適した名で呼んでいるだけだ。そのため、福祉とか差別撤廃措置(アファーマティブ・アクション)のような制度は、自然なバランスを乱すものと考える。政府がよけいなことをしなければ、怠け者は相応の報いを受けるのに、と思う。自分で作った悪因縁がまわりまわって本人を破滅させるはずなのに、不自然な介入がそれを妨げているというわけだ。そのいっぽうで、自分は規則を守り、税金を納め、自由な時間をつぶして残業手当を稼いでいるのだから、それにはなにか理由があるはずだと思っている。豊かな暮らしを求める自分の努力がむだであるはずがない。裕福な人は、それなりの理由があって恵まれているのだと思う。だから、よい因縁を積んでいれば、いつかは自分も高い地位に引き上げられて、相応の恩恵を受けている人々の仲間入りができるはずだ。公正世界仮説によって、人々はこの世にはもともと公正さが組み込まれていると思い、だから人為的に因果応報を乱す制度に憤慨するのである。

なぜ人はそんなふうに考えるのだろうか。

これについては心理学者の意見は割れている。自分の行動の結果を予想できないのは耐えられないからだとか、過去の決定は正しかったと安心したいからだという説もある。もっと研究が必要だ。正義の味方が悪者をこらしめる世界に暮らしたいのはだれしも同じだが、この世はそんなところではない。
とはいえ、だからと言ってがっかりすることはない。この世は不公平だと認めつつ、不公平な世の中を楽しむこともできる。人生を完全にコントロールすることはできないが、自分の力でどうにでもできる部分もかなり多い。そういう部分を徹底的にやっつければいいのだ。ただ、この世は不公平なところだということを忘れないようにしよう。生まれは自分では選べないから、逆境で苦労する人もいれば、努力せずに贅沢に暮らせる人もいる。この世界が公正で公平な場所だとみんなが思っていたら、必要な人に必要な助けが与えられないかもしれない。人はみな自分の行動に責任を持たなくてはならないとしても、残酷な犯罪で責められるべきなのは加害者であって、被害者ではないことを忘れてはいけない。レイプされ、いじめられ、盗まれ、殺されて当然な人などいない。この世界をより公正で公平な場所にするためには、悪が栄えにくい場所にしていく努力が必要だ。そしてそれには、たんに標的になりやすい人を減らすだけではじゅうぶんでないのである。

「思考のトラップ」

デイヴィッド・マクレイニー著 安原和見訳

#引用ここまで#

思考のトラップ
デイヴィッド・マクレイニー 著 ; 安原和見 訳
さまざまな認知バイアス、論理的誤謬、ヒューリスティック…人間は気づかぬうちに脳にダマされている!?奇妙な心のカラクリを解き明かす48の鋭い考察!

「BOOKデータベース」より

[目次]
プライミング効果
作話
確証バイアス
あと知恵バイアス
テキサスの名射手の誤謬
先延ばし
正常性バイアス
内観
利用可能性ヒューリスティックス
傍観者効果
ダニング=クルーガー効果
アポフェニア
ブランド忠誠心
権威に訴える論証
無知に訴える論証
わら人形論法
人身攻撃の誤謬
公正世界仮説
公共財供給ゲーム
最後通牒ゲーム
主観的評価
カルトの洗脳
集団思考
超正常刺激
感情ヒューリスティック
ダンバー数
魂を売る(セルアウト)
自己奉仕バイアス
スポットライト効果
第三者効果
カタルシス
誤情報効果
同調
消去抵抗(消去バースト)
社会的手抜き
透明性の錯覚
学習生無力感
身体化された認知
アンカー効果
注意
セルフ・ハンディキャッピング
自己成就予言
瞬間の自己
一貫性バイアス
代表性ヒューリスティック
予断
コントロールの錯覚
根本的な帰属の誤り

「BOOKデータベース」より

wikipedia_Just-world hypothesis – 忘却からの帰還
http://seesaawiki.jp/transact/d/wikipedia%3AJust-world%20hypothesis

参考

【幸せの貯金!】徳を積む【人徳?財徳?】 – NAVER まとめ

http://matome.naver.jp/odai/2141317126622268501

公正世界仮説と陳腐な善悪の基準を、僕は結びつけます。
倫理哲学が築いてきた善悪と、陳腐な善悪の基準は、乖離していると思います。

生来の発達障害的であるサイコパスやソシオパシーとは違って、そういう障害がなくても、
健常者の悪への便乗は、かなりの割合で起きることを示しています。
また、健常者の無自覚な善への便乗も、僕はかなりの割合で起きることを予想しています。

善悪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E6%82%AA

無自覚な善への便乗として

タイガーマスク運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AF%E9%81%8B%E5%8B%95

伊達直人が贈ったプレゼントの内容まとめ(タイガーマスク主人公名乗る人) – NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2129462245436656601

被害者非難と加害者の非人間化――2種類の公正世界信念との関連――
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/86/1/86_86.13069/_pdf

悪の程度を多くの人たちは量り違える。

価値判断なので量り違えて当然ですが、
公正世界仮説(=公正世界信念)という錯覚に傾向づけられている。

同様に善の程度も錯覚によって量り違えているのだと僕は思います。

スタンフォード監獄実験

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93

ミルグラム実験(アイヒマン実験)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93

『es [エス]』 日本予告篇

 

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